1展示室 東北帝国大学


東北帝国大学の創設

理科大学講堂・本館

(現科学計測研究所付近)

東北大学は、明治401907)年622日に「東北帝国大学」の名前で誕生しました。

発足当時の東北帝大は、明治9年(1876)にスタートした「札幌農学校」を大学に昇格させた「農科大学」と、仙台の地に新しく造られた「理科大学」という二つの大学からなっていました。

同年9月から早速講義が始まった農科大学に比べ、理科大学の方は敷地・校舎・人事などまったくゼロからの出発であり、実際に開講するまで約4年の歳月がかかりました。そして明治441911)年9月、26名の学生が入学し、大学としての本格的な活動がはじまります。

この第一回生が三年級に進んだ大正2年(1913)、東北帝大および理科大学の開学式が、片平の地で盛大に行われました。式典・祝宴・記念講演などが催され、その後5日間にわたり学内を一般公開。多くの市民が、真新しい校舎や珍しい実験器具・標本類を見学しました。


 創設期の学風

パリ郊外に集う教授予定者

明治40(1907)秋、本多光太郎・真島利行・藤原松三郎ら初代教授の内命を受けた8名が、文部省在外研究員としてヨーロッパへの留学の旅に出ました。フランス・ドイツを中心に留学生活を送った彼らは、異国の地で新しい大学について語り合い、そのために必要な書籍・機器などを購入しています。帰国後彼らは次々と新しい研究成果を発表し、国際的な評価を得ていきます。

また、大正元(1912)年には、市内実業家の寄付により、狩野亨吉氏(元一高校長・京都帝大文科大学長)の蔵書が購入されることになります。蔵書は以後40年にわたり受入が続けられ、現在国宝2点を含む約10万冊が本学に所蔵されています。当時は理科大学しか存在しませんでしたが、将来における文科系学部の設置を見据えたうえでの措置であったと言われています。


 門戸開放−創設時の学生

女子入学に関する文部省からの文書

大正2年(1911)入学した26名の学生の中には、旧制高校出身者に加え専門学校・高等師範学校等の卒業生が含まれていました。先行する帝国大学が事実上旧制高校出身者だけに入学を許可していたのに対し、後発の東北帝大では、広く人材を得るため、この枠を取り払ったのです。
そして大正2年には、こうした方針の一環として3名の女性の入学が許可されます。それまで旧制高校出身者のみに入学を許可してきた帝国大学にとって、初めての女性の学生です。彼女たちは数年後日本初の女性理学士となり、その中からはやがて理学博士も誕生しています。


 医科大学と附属病院

医科大学本館

 大正4(1915)年、東北帝大3番目の分科大学として、医科大学が発足します。
医科大学の設置は創設時からの方針であり、明治45(1912)年にはその布石として仙台医学専門学校を「医学専門部」として東北帝大に附属させています。宮城県でも,医科大学誘致のため北四番丁に県立宮城病院を新築し大学に寄附、これは現在の医学部附属病院となります。
 宮城医学校や仙台医専などを前史として発足した医科大学ですが,初代教授のほとんどは、設置に際して新たに招かれた人達でした。彼らは全国4番目のこの医科大学を拠点に、ドイツのみならず英米風の医学にも眼を向け、世界の医学界をリードしていく研究を進めていきます。大正2(1920)年に創刊された『東北実験医学』は、当時他の医科大学に前例がない欧文で編集された雑誌であり、高い評価を受けています。
 大正5(1916)年には医科大学の学友会「艮陵会」が発足、サークル活動なども次第に形が整っていきます。


 工学部と総長公選制

工学部−現素材研上空より

(昭和初期)

 大正8(1919)年,前年に北海道帝大として独立した農科大学に入れ替わり,東北帝大に工学部が誕生します。
 医学部同様工学部の場合も,明治45(1908)年に仙台高等工業学校を工学専門部として東北帝大に附属させます。さらに大正6(1917)年、理科大学の中に応用化学科が設置され、これらを母体に電気・機械・化学の3学科で工学部が出発します。この工学部では、基礎となる理学をふまえた上での工学が目指されたといいます。
 なお同年、理科大学の学長小川正孝が第4代総長に就任します。初代から3代の総長が文部省の人事で決定されたのに対し、小川総長は教授間の互選により選ばれた最初の公選総長であり、以後これが慣例となっていきます。また、同年制定された「大学令」により理科大学・医科大学は以後理学部・医学部と改称され、また4月入学制の開始や卒業式の廃止など、大学のしくみが大きく変化します。


 法文学部発足

法文学部1号館

 大正11(1922)年、東北帝大唯一の文科系学部として法文学部が設置されました。財政難により後回しにされてきた文系学部ですが、高等学校卒業生の大幅な増加などを背景に,実現を見たのでした。
 法文学部設置にあたっては、新進の研究者とともに、すでに高い知名度を持つ研究者が多く選ばれました。個性に富んだこの法文学部の教授陣を中心に、東北帝大にはやがて学部の枠を超えた文化サロンが形成されます。また学生には、文科・法科の枠を設けず自由な課目履修を認めていました。
 教授予定者たちは、当時の円高を利用し,海外留学の先々で、質的にも優れた大量の書籍を購入し日本に送ります。これらの大量の書籍を収めたのが,新築された附属図書館新館でした。正門や理・工・法文学部の建物も次々と建設され、現在の片平キャンパスの原型が形成されていきます。


 研究所大学

金属材料研究所本館

 東北帝大最初の研究所は,大正4(1915)に創設された「東北帝国大学臨時理化学研究所」です。同研究所の物理部門は大正8(1919)年に東北帝大附属鉄鋼研究所となり,これがさらに発展したものが「金属材料研究所」(1922=大正11発足)です。鉄鋼研・金研の発足に際しては、住友家から多額の寄附が寄せられています。 
 鉄鋼研・金研の初代所長が、物質の磁性研究において国際的業績を挙げていた本多光太郎です。大学に隣接する旧仙台監獄の地に壮大な赤レンガの建物が建設されました。
  昭和期には次々と新しい研究所が生れますが、その口火を切ったのが,八木秀次・抜山平一らによる工学部電気工学科での業績を基礎に、1935(昭和10)年に設置された電気通信研究所です。、また昭和14(1939)年には農学研究所が、さらに1941(昭和16)年以降は、軍事的な需要が手伝い選鉱製錬研究所・抗酸菌病研究所・科学計測研究所・航空医学研究所・高速力学研究所・非水溶液化学研究所・硝子研究所などが相次いで設置され,東北帝大は「研究所大学」の異名をとるようになります。


 戦時体制と大学

戦災を受けた理学部赤煉瓦館

 長期化した戦争は、教授人事・総長公選制などの大学自治や学生生活に対し徐々にその影響を及ぼしていきます。昭和14(1939)には軍事教練が必修化され、また1938(昭和13)年頃からは多くの学生が仙台近郊の農家や陸軍・海軍の工場に勤労奉仕に出かけ、1942(昭和17)年からは卒業時期も半年繰り上げとなりました。
 そして昭和18(1943)年、法文系学生の徴兵猶予が停止され、多くの学生が兵役に駆り出されることになります。同年11月には宮城野原練兵場にて出陣学徒壮行式が開催されました。
悪化する戦局の中、1945年になると研究室の疎開も行われ始め,ついに7月9日夜半、東北帝大は大空襲により片平丁構内の約40パーセントの建物を失います。創設以前からの木造建物はこの時殆ど焼失し、わずかな学生を相手に細々と続けられていた講義もついに中断します。


 戦災復興と農学部

農学部新校舎

 昭和20(1945)年8月、戦争は終結し、戦地や勤労動員先に赴いていた学生たちは困難を押しながら徐々に仙台に戻ってきます。他大学や軍関係学校からの転学生も加わり学内は賑やかさを取り戻し、9月には天井に穴があいた教室で「終戦記念講演会」が開催されました。10月から授業が再開されます。
 1947(昭和22)年には、未曾有の食糧不足を背景に、戦後初そして東北帝大最後の学部として、農学部が新設されます。同時に川渡村等の旧軍施設が農場予定地とされ、昭和24(1949)年には北六番丁の旧二高跡地を用地として確保、新たなキャンパスづくりが開始されます。
 そして同24年9月、東北帝国大学はその名称を「東北大学」と改め、帝国大学としての歴史を閉じます。


 

新制東北大学

第二高等学校

仙台医学専門学校

仙台工業専門学校

宮城県女子専門学校