第2展示室 新制東北大学


新制大学の発足

東北大学第一教養部・富沢分校
(旧二高三神峯校舎)

 1947(昭和22)年の教育基本法・学校教育法制定により、東北大学は1949(昭和24)年5月、第二高等学校・仙台工業専門学校・宮城県女子専門学校・宮城師範および宮城青年師範学校を包摂し、第一・第二・第三・教育の各教養部を設置した新制東北大学へと生まれ変わります。キャンパスは仙台市内各地に散在することとなります。教職員定数は3,977人にのぼり、これは東京大学に次ぐ規模でした。
 同年、法文学部は法・経済・文の3学部に解体、さらに教育学部が新設され東北大学の学部は8つとなります。工学部では仙台工専の学科を基礎に土木工学科・建築工学科などが新設され、農学部でも宮城女専の家政科をもとにした生活科学科が設置されました。


 新制度発足直後の1950(昭和25)年、戦後の大学制度改革を主導した連合国軍総司令部教育局顧問W.C.イールズが来学、これをめぐっていわゆる「イールズ事件」が起こります。共産主義的思想の大学からの排除を骨子とするイールズの主張に対し,反対学生が講演の中止を要求。強行された講演は結局流会となりました。大学側は独自の調査で学生への処分を発表しますが、イールズの要求に対しては暗にこれを拒否したといいます。


移転問題と教員養成課程分離

 

30年代の川内キャンパス(東から)

 昭和32(1957)年、戦後駐留米軍の キャンプ地として使われていた川内・青葉山地区が、東北大学用地として移管されることになります。これをうけ、翌33年にはそれまで富沢地区(富沢分校)および北七番丁(北分校)にあった教養部のキャンパスが川内地区に移転し、それぞれ東北大学川内分校・川内東分校となります。当初は米軍の施設をそのまま校舎として利用していましたが、昭和351960)年には創立50周年を記念した記念講堂が川内に建設され、以後全学的な規模での移転整備計画が徐々に進行していきます。

 その最中の昭和39(1964)年、教育学部に置かれた教員養成課程を「宮城学芸大学」として独立させるという構想が発表されます。学内意見が分かれるなか,結局分離独立案が決定されますが、その過程をめぐり学内に意見の対立が残り、結局当初予定されていた東北大農学部の地ではなく、青葉山地区に「宮城教育大学」が建設されることになりました。昭和40(1965)10月には、その決定経緯に抗議する学生が片平キャンパスに集合し、「全学ストライキ」が行われるという事態となります。


大学紛争

教養部理科研究棟封鎖解除

 1960年代後半から70年代にかけて、理・工・文系4学部の川内・青葉山移転が本格化し、近代的なビルが川内・青葉山地区に次々と建設されていきます。また、昭和40年(1965)に歯学部が発足、昭和47年(1972)には医学部薬学科を母体として薬学部が新たに設置されました。

 そしてこの時期は、東京大学・日本大学を中心に、授業料値上げ反対や大学運営の民主化をスローガンととした学生運動が全国的に展開された時期でもあります。東北大学もこうした動きの中で大きく揺れ動きます。様々な動きが錯綜する中、1969(昭和44)年には一部学生による教養部棟などの長期封鎖事件が起こり,激化のピークを迎えます。


東北大学の現在

創立50周年記念講堂

 平成5(1993)年3月、戦後学制改革の動きの中で誕生した教養部が廃止されます。これに代わって新たに独立の大学院研究科として設けられたのが、国際文化・情報科学の両研究科でした。

 既存の学部においても、大学院の重点化整備が進行しつつります。また時代の要請の変化に伴い、戦前・戦中期に発足した附置研究所も多く改組転換され、新たな研究所・研究センターとして生まれ変わりました。

 このほか、多くの外国人留学生の受け入れ、大学・学部間の国際学術交流など、国際化への動きも大きく進展しています。

そして20044月からは「国立大学法人」となり、また新しい時代へと足を踏み出しました。

東北大学は、今また変化の時代を迎えています。


 

東北帝国大学

第二高等学校

仙台医学専門学校

仙台工業専門学校

宮城県女子専門学校