東北大学百年史編纂室ニュース

第2号 1998.8.31

東北帝国大学医科大学本館

目次
『東北大学百年史』に期待する
東北大学副総長・百年史編纂委員会委員長 小山貞夫
百年史構想をめぐって

 東北大学百年史編纂構想委員会元委員長・東北大学名誉教授 渡辺信夫

第2回東北大学百年史研究会

工学部創設前史をめぐる諸問題          

工学部史編纂室 酒井良樹

点描・百年史

アインシュタイン博士と東北大学
百年史編纂室日誌抄録


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『東北大学百年史』に期待する

東北大学副総長・百年史編纂委員会委員長 小山貞夫


 東北大学が創立50周年を迎えた1957年には、私はまだ学生であった。その年に記念式典があったことはかすかに覚えているが、どんな企画があったのかは全く記憶にない。しかし少し遅れて実現した50周年記念事業としての記念講堂と『東北大学五十年史』のことは良く覚えている。講堂は、1960年に、校舎及び公務員宿舎として利用していた旧米軍宿舎だけの地区に、それこそ忽然と全く異質で見事な恒久建築が立ち、しかも広い前庭まで整備されたからである。また『五十年史』の方も、同じ1960年に公刊されたが、当時編集執筆に携わっておられた編集委員会委員長の中村吉治前附属図書館長、中央委員のお一人高柳真三教授に親しくしていただいた関係で、苦労話を聞かされていただけではなく、五十年史編集室が、私の指導教官であった世良晃志郎教授が中村教授の後任として館長をなさっていた図書館内にあり、したがってそこで専ら編集に携わった原田隆吉助手とも接する機会が多かったからである。残念ながら、ここに記したすべての先生がお亡くなりになってしまったので、当時の思い出を聞くことはもうできない。しかし、その成果たる『五十年史』2巻は、我が国の大学史の中の白眉とされ、その後各大学で製作されたものの模範となっていると聞いている。現に、『五十年史』は資料として貴重なだけでなく、読んで面白い。特に、東北大学に籍を置いた関係者にとっては、そうである。立派に歴史書になっているからである。

 欧米では大学史は歴史学の一部門としての位置づけを早くに得ていたと思う。教育史全体の中での大学の位置づけだけでなく、古い大学・学部の歴史が専門研究の対象になっているし、またそれ故にそれに関する研究・単行本も多い。これを証するごとくに文献目録にも大学史が独立項目となっているものも多い。我が国でも大学一般の歴史を主たる専攻にされている方はいるが、大学そのものの歴史が浅いせいでもあろうが、この点では欧米に大いに劣っているように思われる。

 『東北大学百年史』は早くから構想されていたが、昨年頃から漸く編集体制が整いつつある。全学の協力を得て、専従の講師・助手各一名、事務担当室員2名から成る編纂室ができ、また資料蒐集も本格化して来たからである。これで多分全11巻中の全学にかかわる巻の準備体制は整ったと言って良いであろう。問題は部局史の方である。果たして各部局でどこまで進展を見せているであろうか。部局によっては、本部の編纂室での仕事以上に早くから準備に入り、相当の進捗が見られる所もあると聞いているが、大部分の部局では今のところ形式的に編集委員会を設立しただけにとどまっているのではなかろうか。新たに編纂委員会委員長を引き受けた者として、いささかの不安を持っている。私は、『東北大学百年史』においても、『五十年史』の時と同様、日本の大学史の第二の劃期を作りたいと願っている。そのためには、編纂室のみならず各部局編集委員会においても、学問的に耐えられる真の意味の大学史を作る努力をしていただければと願っている。資料蒐集は勿論大前提であるが、それを駆使して執筆するための準備、特に近年大学を取り巻く状況が大きく変質しつつあるだけに、過去を振り返り未来を見据える歴史を書くための統一的視点の設定は、歴史学としての大学史を完成するためには不可欠となろう。この面でも編纂室と部局史委員との間の早期のかつ緊密な連絡・討議を期待したい。

 新たな大学史の出発点を作る気概を、編集執筆に携わる人々すべてが持っていただけたらと願って止まない。

 

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百年史構想をめぐって

東北大学百年史編纂構想委員会元委員長・東北大学名誉教授 
渡辺信夫

 東北大学100年の歩みを記録し、東北大学の生んだ学術的研究成果を後世に伝えようという学内の気運が盛り上がってきたのはだいぶ前のことである。創立以来、日本の学界をリードし世界をリードしてきた東北大学の学術研究の数々とその沿革を世界に社会に正確に伝え、それを誌すことは日本の学問史、科学技術史にとってもきわめて有意 義であるばかりでなく、東北大学の社会的責務であるといってよい。 しかしながら、大学は自らを語ること少なく社会的には沈黙の巨大学 術研究集団とみられてきた。しかし、学術・技術が世界をリードする ことの必要が求められている時代が到来し大学が自らを語り大学の進むべき方向を見定めることの重要性は誰しもが認めるところとなっいる。そのような意味で年史編纂は単に大学の沿革を確認し記録に残すだけでなく大学の社会における自己認識と新たなる出発のために不可欠な作業であるといえよう。

 東北大学が百年史編纂について本格的な検討を始めたのは平成5年度に入ってからである。正確には、平成5年7月20日、東北大学百周年記念事業企画委員会(委員長平則夫医学部長)の下に東北大学百年史編纂構想委員会(委員長渡辺信夫)が設置されてからである。年史編纂は全学共通の関心事であっても歴史の編集という特殊な作業を伴う。そこで委員会は全学的立場からの委員に歴史編集に経験をもつ歴史系教官を加え11名で発足することとした。この委員会は名の通り、編纂の基本方針、編纂の体制、百年史の構成を検討し、編纂構想を答申することを第一の仕事としたが、年史関係資料の収集をも同時に始める事とした。百周年を迎えるまでまだ長い時間があるようだが関係資料の収集には相当の時間を必要とし1年でも早く着手すべきであるとの判断があったからである。もっとも、東北大学は大学史研究施設として誇るべき記念資料室をもち関係資料の収集を続けてきたが、とくに『五十年史』刊行後の年史資料はまだ十分とはいえない。それだけ東北大学は巨大なのである。

 年史を構想し、編集に着手するには構想の検討に加えて他大学における年史の編纂事情や学外における関係資料の所在などの見通しをつけておく必要がある。そんなわけで、九大、京大、名古屋大、東大、中央大、北大の編纂事情の調査に出掛けた。九大は編集室を設け2名(講師・助手)を配置し長期にわたり年史資料の収集を行なっていた。そして、大学公文書などが膨大なマイクロフィルムに収められていたのには教えられた。東大では百年史編纂事業は終了していたが、安田講堂内の史料室には明治初年以来の文部省と大学との往復文書が整然と並んでいた。北大農学部では東北帝国大学農科大学創立期の教授会議事録を閲覧することができた。各大学とも年史編纂にあたり積極的に関係史料の収集を行なっていることを改めて確認したのであった。この出張費等の調査費は時の西澤総長から格段のご配慮をいただいた。あの委任経理金がなければ年史編纂の立ち上がりは不十分なものとなったであろう。この機会をかりてあらためて感謝を申し上げたい。

 こうした調査結果をもふまえ、編纂構想の結果を「『東北大学百年史』編纂構想について」(平成6年9月30日)と題して報告した。報告書は、 『百年史』編纂の基本方針、編纂体制 、『百年史』の構成 、編纂期間 から構成された。この報告が基本的に了承され今日の編纂事業となっていることは周知のことである。関心のもたれる基本方針を再録すれば、

 1、創立以来の本学の沿革を客観的に解明し、その間生起した学内外の諸課題にどのように対処したかを明らかにする。
 2、本学における学術研究の問題意識
と研究成果を通して、本学の世界、日本、地域に対する学術的貢献を明らかにする。
 3、高等教育機関として開学以来、平成6年3月現在約12万名の有為な人材を輩出してきたわが国有数の大学であるとの認識の下に、大学の内外における学生生活、社会的要請と学生、地域社会との関係、国際交流等学生の動向を他面的、動態的に明らかにする。
 4、創立以来の本学の歩みを明らかにするのみならず、東北大学につぎの世紀を展望するに足る指針を与えるものでなければならない。

 1、は大学の沿革であり、年史の骨格について述べたものでいわばどの年史にも共通することである。2、は研究重視の東北大学の伝統に注視するとともに、研究にあたっての問題意識、社会への学術的貢献を明らかにする。3、は学生の卒業後の活躍をも視野に入れて高等教育機関としての役割を明らかにする。4、は年史に有りがちな過去の称賛より東北大学のあるべき指針が読み取れる年史でなければならない。要するに、百年史は壮大な東北大学の自己評価であり、世界に、日本に、地域に情報を発信しつづける東北大学の自己確認であるといってよい。構想から編纂の段階に入りすでに2年を経過した。これからが正念場である。一部の人でできる事業ではない。上記の基本方針が名実ともに貫徹する年史となるためには、全学、就中部局の多い理系部局の協力が不可欠であろう。

 


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第2回 東北大学百年史研究会                  
工学部創設前史をめぐる諸問題

工学部史編さん室 酒井良樹

最初の東北大学工科大学構想

 東北大学工学部は大正8(1919)年5月22日創設されたが、その20年前の明治32(1899)年6月18日の『国民新聞』に、工科を含む東北(帝国)大学構想が紹介されている。この記事は、文部省が明年度において九州大学の外更に東北大学新設を内定し予算を大蔵省に廻送したと伝え、東北大学は仙台市に33年度から260万円の8ケ年継続予算として、来年度は宮城県民の寄附35万円を支出に充て、36年度に医科大学、次年に工科
大学、その次年に法科大学を開設する予定であると報じた。この東北大学計画については『五十年史』などにも記載があるが、具体的な分科大学計画の記述は従来見られなかった。順調に進めば明治37年に工科大学が誕生したことになる。これは第二次山県内閣の山資紀文相が構想した「八年計画」と呼ばれた高等教育機関増設案の一環であったが、この計画は折から学制改革が論じられていたため閣議の了解を得ることが出来なかった。一炊の夢に終わったかにみえる八年計画だが、九州、東北、札幌などの大学誘致運動を刺激してその後の成行きに少なからず影響を与えた点で重要な意味を持っている。八年計画を挫折させる理由となった学制改革議論は20年後に大学令という結論に到達した。東北大学の設置は一時ほとんど見込みがなくなり、その代わりのように仙台高等工業学校が将来の大学昇格をほのめかせられながら設立された事実が後の経緯を複雑なものにした。

工科大学開設の閣議了承

 国立公文書館所蔵の閣議提出文書『公文類聚』によれば、政府が本学工科大学を設置する実質上の意思決定したのは大正5(1916)年8月2日の閣議であった。この閣議では大正6年度に北海道大学の分離独立と共に東北理科大学に応用化学科を新設し、遅くも大正8年までに少なくとも電気工学科と機械工学科を設けて工科大学を開始することが基本的に了承された。実際の創立の3年前に年次計画によって工科大学設置が内定していた事実は従来の理解とはかなり違っている。

 例えば、『五十年史』には大正6年6月に北条総長が「今年度中に工科大学を全面的に設立することの不可能なるを知り、応用化学科を理科大学の一学科として計画し成功したのであった。」と転任直前の綱渡り的な努力によって応用化学科が設置されたかのような劇的な記述があるが、事実は一年前に内定していた路線であるから根拠の薄い物語と思われる。『五十年史』には、大正7年の夏にも北大医科等との競合で工科実現が容易でない上に、工学専門部の分離運動によって困難な事態になったが、「福原総長は、ここで積極策に転じ、高専存続を文部省へ強くかけあう」などして危機を脱したとの趣旨の記述があるが、東北工科と北大医科はすでに2年前から年次計画が動きだしており、工専存続は『五十年史』自身の別の箇所に同年2月23日存続が決定したとの矛盾する(が正しい)記載もあって、この形勢逆転の物語も事実とは考えられない。『五十年史』には、他に日付などの事実関係の誤記や混乱も少くなく、百年史ではこのような問題を減らす方法を考える必要があろう。

 『五十年史』は、資料として新聞などを用いて肉付けしたので読ませる親しさがあるのが迎えられ、他大学の年史に相当の影響を与え、多くの文献の東北大学に関する記載がこれに依拠するなど、東北大学史の基本イメージを学内外に樹立した。しかし出版後40年の間に現れた多数の資料等によってその事実認識等の修正が少くなからず必要になってきている。

 工学部創設が難航した理由として、他に(1)文部省は応用化学科で十分で工科大学不要とした(2)政府内に仙台のような工業地でない所に工科大学は不適当などの意見があって何年も遅れたとされているが、少なくともそれほど大きい影響を与えたという裏付けは得られていない。澤柳総長が明治45年4月仙台高等工業を大学附属工学専門部として工科大学の布石にした後、北条総長が就任した大正2年には工科開始を大正5年とするよ
う文相に意見を述べた。その大正5年6月に北条が東北大学の経営計画を文相に説明した際、工科新設問題は2年間引き続いた行政整理の方針のために容れられなかったが財政の余裕ある今が機会だと説いて8月2日の議を迎えたのである。即ち主として行政整理のため1〜3年開設が遅れた事実が工科難航の中心であったと考えられる。

化学教室を力強くした工科大学構想

 理科大学応用化学科の設置については『五十年史』をはじめ第一次世界大戦の影響として記述されることが多い。しかしその構想は既に大戦に先立つ大正元年に初代澤柳総長から牧野文相に宛てた書簡の中に、工科大学は帝国工業の基礎を造り、殊に化学教室を力強くして将来の化学工業の原動力とする計画として述べられている。第一次大戦によるドイツの化学工業製品の輸入途絶が化学工業と応用化学振興の必要性を広く痛感させることになったが、澤柳は高峰譲吉などと共に学理の基礎から積み上げる研究の必要を先見していた一人であった。

臨時理化学研究所

 臨時理化学研究所は大正4(1915)年7月11日に発足し応用化学者の佐藤定吉が研究主任となったが、これは日本の大学に置かれた最初の研究所であった。学内の臨時措置とは言え、その設立は5月17日文部大臣と4帝大総長の内議により日本の学術政策に転機をもたらす形で了承を受けて設置されたものと推測され、近い将来には官制による恒久研究所が計画されていた。民間からの研究費受け入れや特許運用の制度化など在来の講座制下での研究費不足を補うと共に実業との協力につながる新しい考え方も提起していた。北条総長らは東北大学をドイツの大学のような実験と観察による真理の発見と発表を目的とする大学とするために、分科大学のほかに当面化学部門と物理部門の研究所を設け、化学部門は応用化学科と連携する制度を構想したものと思われ、後に東北大学が日本一の研究所大学となる原点となった。

学風

 (時間の関係で話は打ち切ったが、配布資料や質疑から一端を述べれば、)初代の機械工学の教授宮城音五郎は、工学部の創設を従前の英国式の工学からドイツ式の工学に切り換える好機と考え、他大学の機械科と違い基礎の理学を重視して物理学科実験室と見誤るような設備や授業内容を用意した。当時ドイツの大学は輝かしい科学革命の拠点となり世界的な尊敬を集めていた。一方大正6年9月10日の『朝日新聞』によれば、東京帝大工科大学は職業教育に重きを置き研究的設備は全然欠如している等という実情だった。

 なお本多光太郎から八木秀次に至るグラスゴー大学の学風という西澤前総長の指摘の資料的裏付けについては、さらに今後の検討に待ちたい。

*本記事は、第2回東北大学百年史研究会(平成10年5月14日 於 東北大学片平会館会議室)で行われた酒井氏の報告をご自身でまとめられたものである。(百年史編纂室)

 


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点描・百年史 アインシュタイン博士と東北大学

 (明治45年)5月21日付けの手紙がある。東北帝国大学初代総長の澤柳政太郎が、当時ミュンヘンに留学中であった本学理科大学助教授石原純(帰朝後教授)にあてたもので、石原がミュンヘンに到着したことを報告した手紙に対し、澤柳が本学理科大学の人事や「理科報告」編集の進捗状況など、開講二年目(明治40年設置、明治44年開講)の理科大学の近況を知らせたものである。長文をいとわず読んで見よう。

 『拝啓 途中御障りもなく無事ミュンヘンへ御到着之段珍重に候御出発後当地別に変りも無之二高の田中理学士講師となり尚本東大卒業の斉藤氏講師として来任の筈に候窪田助教授も本年夏期中に出発相成候事と存候一高の掛谷氏多分来任と存候理科報告第三冊は片山教授と小林助教授のとにて成り候事と存候、其内御高論御送付待上候本年内には地質の方にても何か出来可申し候と存候
外国教師の件は多分本多(光太郎)兄より申上候事と存候アインスタイン氏は如何との事アブラハム氏(マックス・アブラハム教授か?)両氏の内にて承諾し呉くれば(ママ)幸と存候尤も右ハ予算に計上し議会を経る等の手続きを要し候間今より確と申し候事ハ断言出来候(ママ)俸給ハ一万五千麻(マルク) 即七千五百円位かと存じ候期限ハ多くは最初三ケ年とし満期後双方の合意にて継続候次第に候
本年八月下旬ロンドンにて開会の第五回万国数学会議に列席相成候てハ如何御思召も候はば其旅費等右の趣を以て大体計算して要求を試みられ度存候御身体大切に祈上候
理科の諸学科に対する獨乙青年の状況如何
御安着御喜迄 草々
                                澤柳生
                                 五月二十一日
                                     石原 兄 』
           (原文旧漢字ペン書き、東北帝国大学用箋、封筒欠)

 この書簡は『澤柳政太郎全集 第10巻』の書簡集に採録されていたものであるが、本学最初の外国人教師候補にアインシュタイン博士が擬せられていたとは驚きであり、これが実現していたらと考えると、いささか興奮を覚えない訳にはいかない。

 石原博士によれば、『明治44年に東北帝国大学が創設されたとき、澤柳総長の知遇によって私もそこに赴くことになりました。その頃からアインシュタイン教授をわが大学(東北帝国大学理科大学)に招聘してはどうかという相談を(澤柳総長から)長岡(半太郎)教授や私などの間に持ち出されたことがありました。しかし、その実現にはいろいろ困難な事情があって、そういう話もそのままになってしまいました。』ということである(『アインシュタイン講演録』)。

 この計画は実現こそしなかったが、年俸の額まで試算しているところから、かなり具体的提示を行った模様であり、理科大学開設当時の、とりわけ澤柳総長の意気軒昂な先見性を読み取ることができる。

 当時 (1902-1907)アインシュタイン博士はベルンの連邦特許局技術専門職試補の職にあって「分子の大きさの新しい決定法」をはじめ、ブラウン運動、特殊相対性理論に関する二つの論文などをつぎつぎと発表し、学界の注目を浴びてはいたが、一般的名声を得るに至ってはいなかった。にもかかわらず、アインシュタイン博士についての着実な情報収集を行ない、他に先駆けて招聘運動を開始した本学草創期の諸先生には敬服の他ない。

 大正11年、改造社の招きで来日した博士は東京、仙台、名古屋、京都、大阪、神戸、福岡の各地で講演を行った。同時に、博士が多年憧れていた日本の古代建築や能の見学、日本音楽の鑑賞などを精力的に行うとともに、長年に亘る日本文化への理解を披瀝し、その保存を強調されたのであった。

 12月3 日アインシュタイン博士は本仙台市公会堂で一般向けの講演を行った後、本学を訪問され、歓迎茶話会に臨み教授50人と交歓した。その中にひときは長身の外国人(生物学科教師)ハンス・モ−リッシュ博士(後ウイ−ン大学総長)がおり、会半ば、知日家の両博士は会議室の白壁に毛筆で自署した。そして本多光太郎、愛知敬一、日下部四郎太、そしてすでに休職中ではあったが、石原純教授の活躍した東北大学は脅威であるといわしめたのであった。

(参考文献)
1) 澤柳政太郎全集第10巻 国土社 1980
2) 石原 純著 アインシュタイン講演録 東京図書 1978
3) アブラハム・パイス著 神は老獪にして
−アインシュタインの人と学問− 産業図書 1982
4) 石原 純著 ヨ−ロッパ留学当時の思い出
わが師わが友 筑摩書房 昭和17年

 

 


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百年史編纂室日誌抄録

 

1997(平成9)年  
10月1日 第8回幹事会(部局史の編纂)。
2日 東北学院大学中央図書館見学(編纂室員)。
9日 評議会議事要録マイクロフィルム化終了。
13〜15日 全国大学史資料協議会全国研究会、東北大学にて開催(中川室員「大学史編纂と資料保存の現状−東北大学の場合−」と題し基調報告をおこなう)。
20日 編纂室スタッフ会議。
11月 5日 第9回幹事会(部局史の編纂)。
17日 編纂室スタッフ会議。
28日 第5回百年史編集委員会(部局史の編纂)。
12月 4日 阿部博之編纂委員長と今泉室長打ち合わせ。
10日 芳賀半次郎名誉教授(経済学部)より資料寄贈。
 17〜19日 編纂室員が北海道大学沿革資料室に出張(東北帝国大学農科大学関係資料の調査)。
 15日 『東北大学百年史編纂室ニュース創刊号』刊行。
22日 編纂室スタッフ会議。
1998(平成10)年  
1月 4日 滝浦静雄名誉教授(文学部)より資料寄贈。
8日 菅野喜入郎名誉教線教養部)より資料寄贈。
14日 編纂室スタッフ会議。
16日 第10回幹事会(部局史の編纂・9年度事業報告・10年度事業計画)。
 21日 第6回百年史編集委員会(部局史の編纂・9年度事業報告・10年度事業計画)。
2月16日 百年史編纂委員会(9年度事業報告・10年
度事業計画)。
  17日 芳賀半次郎名誉教授(経済学部)より資料
寄贈。
18日 久道茂東北大学後援会理事と今泉室長の打
ち合わせ。
3月8〜10日 編纂室員が、京都大学百年史編集史料室、名古屋大学史資料室に出張。
23日 中川武美教投(理学部)より資料寄贈。
編纂室スタッフ会議。
25日 河相一成名誉教授(農学部)より資料寄贈。
4月 6日 平成9年度及び平成10年度事業について庶務課との打ち合わせ。
10日 土倉保名誉教授(理学部)より資料寄贈。
16日 編纂室スタッフ会議。
23日 小山貞夫編纂委員長と今泉室長の打ち合わせ。
30日 第11回幹事会(部局史編纂、資料編編纂方針等)。
5月12日 故鈴木廉三九名誉教授(工学部)子息鈴木貞朔氏より資料寄贈。
13日
第12回幹事会(現存しない部局の取扱い資料編編纂方針等)。
  14日 第2回東北大百年史研究会開催。酒井良樹氏(東北大学工学部史編纂室)の報告。
15日 桂重俊名誉教授(工学部)千代夫人より資料寄贈。
18日 百年史編纂委員会(9年度決算報告)。
編纂室スタッフ会議。
 22・23日 鈴木貞朔氏より資料寄贈。
 28日 第13回幹事会(資料編収録統計データ等)。
 6月15日 黒田正典名誉教授(教養部)より資料寄贈。
18日 第14回幹事会(資料編収録統計データ等)。
  22日 編纂室スタッフ会議。
   29日 第7回百年史編集委員会(部局史の編纂等)。

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