東北大学百年史編纂室ニュース
                         創刊号 1997.12.31

東北帝国大学理科大学
目次
百年史の編纂にあたって      

東北大学総長・編纂委員長 阿部博之

百年史編纂事業にご支援を      

 編集委員長・編纂室長 今泉隆雄

百年史編纂事業の経過
東北大学百年史編集委員会名簿
東北大学百年史編纂委員会規程
東北大学百年史研究会がおこなわれた
東北大学百年史編纂室開設記念講演会 西澤潤一前総長
                     
「東北大学百年史に寄せて」(抄録)


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              百年史の編纂にあたって

                                総 長  阿部 博之 

 東北大学は1907年(明治40年)の創立である。今年(1997年)の6月をもって満90年を越えた。3番目の帝国大学として京都大学に遅れること10年であった。その後、九州、北海道と大学が設立された。ここまでが旧帝国大学令による大学である。すべてが一極集中という明治以来の歴史の中で、大学は多極分散であった。多極分散は、当然の結果として、各大学が建学の精神を含む特色を発揮することとなる。その後、国公私立の多くの大学が設立されていったのは知られている通りである。

 政治の中心はもちろん東京であるが、そのほかの主要な権力がすべて一極集中であったことは、中央、地方という言葉に端的に表現されている。当然のことであるが、学術研究にはこのような区別はない。大学は、直接世界を相手にしなければ、仕事ができないからである。わが国の大学の歴史は、このような矛盾と葛藤の上に成り立ってきたということができる。

 明治維新後は西欧を、第2次世界大戦後はとりわけ米国を師とし、あるいは先達として多くを学び、またそれらを導入した。優れた点を取り入れることに異論はない。一極集中の価値観は、追いつき、追い越せの時代においては効率的であった。しかしこの時代は終わった。未来に対する知的財産の創製を、欧米特に米国に肩替わりしてもらう、いわゆる甘えの時代は終わり、わが国自らが汗を流していかなければならない時代に入ったのである。わが国が迎えている転換期の本質はここにあり、したがって大学の役割は極めて大きい。

 大学が、研究教育の中身だけでなく、仕組みにおいても国際競争の時代に入るのは確実である。東北大学の建学の精神を噛みしめてみると、改めてその先見性に頭が下がる。百年史の編纂は、建学の精神の今日的意義を考える絶好の機会を与えて下さったように思う。東北大学五十年史は評判が高い。失礼な言い方かもしれないが、事実面白い。その理由は、教授(ないし教員)の顔が見えるからである。他の大学史の中には、教授の顔が見えないものも散見されるが、恐らく読者の数は比較にならない程少数であろう。百年史においても、是非ともこの五十年史の長所を引き継いでいただきたい。

 百年史の編纂にあたって、名誉教授の先生方などの諸先輩に御指導いただかなければならないところが極めて大きい。 各学部、研究所等で、早急にこのための体制づくりをお願いしたい。


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          百年史編纂事業にご支援を

                      編集委員長・編纂室長  今泉 隆雄


 
本年4月東北大学百年史編さん室が片平の記念資料室の一隅に設けられて、いよいよ編纂事業が本格的に始まった。この編纂事業は2007年に迎える本学百周年を祝う事業の一つとして計画されたもので、これまで記念事業企画委員会の下の百年史編纂構想委員会によって編纂事業計画などを検討してきた。

 百年史の巻数・構成は、本編が通史3巻、部局史4巻、資料編3巻の10巻、これに別編1巻がつき、全11巻の大規模なものとなる。通史は全学の歴史、部局史は部局ごとの歴史、資料編は基本的な史料を収載し、別編は「図説東北大学の歴史」として写真を中心に編集する。刊行計画では全11巻を100周年を迎える2007年までに刊行する予定である。

 編纂の基本方針は、(1)沿革、(2)学術研究の成果と貢献、(3)社会との交流、貢献などを明らかにし、(4)21世紀への展望の指針となるものをめざしている。すでに1960年に『東北大学五十年史』2巻が刊行されているが、百年史はあらためて創立からの100年を対象 にする。編纂の組織は、部局長などによる編さん委員会の下に編集委員会、編さん室を設け、また部局史編纂のために各部局に部局史編さん委員会を設置していただく。

 『東北大学五十年史』は大学の年史の中で世評の高かったものであるが、この伝統を受け継いだ上で、さらに新しい百年史の編纂をめざしたい。これから10年間に11巻の百年史を編纂・刊行していくのには種々の困難が予想され、それを乗り越えて事業を完成させるためには学内外のご支援が必要である。 執筆・編纂には直接の担当者だけでなく、学内の各部局はもちろ ん、学外の名誉教授をはじめとするOB、また卒業生の方々のご協力が必要である。これらのことを含めて、百年史編纂事業に対して、学内外の方々の絶大なるご支援をぜひともお願いしたい。

 

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百年史編纂事業の経過

1993(平成5)年  
   
 7月20日 百年史編纂構想委員会設置。
東北大学記念資料室の一角に委員会事務室設置。
11月 4日 第1回百年史編纂構想委員会開催。
同委員会名簿
委員長 渡辺信夫(文学部教授)
委員  羽下徳彦(文学部教授)、沼田裕之(教育学部教授)、竹内峯(理学部教授)、横井實(医学部教授)、箱守京次郎(工学部教授)、広川吉之助(金属材料研究所教授)、渡部治雄(大学教育研究センター教授)、今泉隆雄(文学部助教授)、大藤修(文学部助教授)、平川新(文学部助教授)(平成5年当時の所属・官職)
   
1994(平成6)  
   
 1月31日 第2回百年史編纂構想委員会開催。
 3月30日 編纂構想委員が九州大学史料室に出張(大学史編纂に関する調査をおこなう)。
 5月17・18日 名古屋大学史編集室・京都大学百年史編集史料室に出張(同上)。  
 27・28日 東京大学史史料室、 中央大学大学史編纂課に出張(同上)。
 6月 2日 第3回百年史編纂構想委員会開催。
 22日 北海道大学北方資料室・同農学部・北海道立文書館に出張(大学史編纂に関する調査等をおこなう)。
 7月19日 第4回百年史編纂構想委員会開催。
 8月29日〜9月1日 北海道大学北方資料室に出張(東北帝国大学農科大学関係資料の調査をおこなう)。
 9月 6日 第5回百年史編纂構想委員会開催。
 26日 第6回百年史編纂構想委員会開催。百年史編纂構想の最終報告まとまる。
 9月29日 百周年記念事業企画委員会に対して百年史編纂構想を答申。
   
1995(平成7)年  
   
 1月17日 記念事業企画委員会から部局史編纂についての修正意見が出される。
 2月 8日 第7回百年史編纂構想委員会開催(報告案の一部修正)。
 17日 編纂構想を再び答申。記念事業企画委員会で承認さる。
12月12日 第8回百年史編纂構想委員会開催(編纂室設置までの活動について)。
18日 百年史編纂委員会設置。
   
1996(平成8)年  
   
 2月20日 第1回百年史編纂委員会開催(編集委員会等について)。
 9月17日 第2回百年史編纂委員会開催(編集委員の選出等について)。
10月 4日 第1回百年史編集委員会開催(委員長に今泉隆雄文学部教授を選出)。編集委員会の中に原案作成機能をもつ幹事会を設置。
11月21日 第1回幹事会開催(編纂事業計画等について)。
12月11日 第2回幹事会開催(百年史編纂方針等について)。
   
1997(平成9)年  
   
 1月 8日 第3回幹事会開催(編纂室の構成等について)。
 2月 7日 第2回百年史編集委員会開催(百年史編纂
        方針等について)。
 18日 第3回百年史編纂委員会開催(同上)。
 3月 6日 第4回幹事会開催。
 4月 1日 百年史編纂室設置。東北大学記念資料室の館内に、室員室・事務室・資料保存室の3室を置く。
 4月14日 第5回幹事会開催(平成9年度事業計画等について)。
 25日 第3回百年史編集委員会開催(同上)。
 5月14日 第6回幹事会開催(評議会議事要録の取扱いについて)。
 16日 第1回東北大学百年史研究会開催。中野実氏(東京大学史史料室)の報告。
 19日 編纂室スタッフ会議(毎月1回)。
第4回百年史編集委員会開催(評議会議事要録の取扱いについて)
第4回百年史編纂委員会開催。
 23日 事務局庶務部関係文書調査開始。
 6月 2日 編纂室スタッフ会議。
 6日 百年史編纂室開設記念講演会開催。
西澤潤一前総長講演。
  9日 第5回百年史編纂委員会開催(評議会議事要録の取扱いについて)。
 7月 2日 編纂室スタッフ会議。
 9日 第7回幹事会開催(部局史編纂方針等について)。
 16〜18日 附属図書館における大学史関係資料の調査。
 31日 部局史編纂委員会の設置を要請。
 8月 1日 名誉教授への資料寄贈依頼。その後、次の名誉教授の方々より本学関係資料寄贈。
阿部純二(法学部)、伊崎和夫(農学部)、岡部泰二郎(工学部)、小高民夫(理学部)、桂重俊(工学部)、金田尚志(農学部)、佐藤喜代治(文学部)、笹野伸昭(医学部)、嶋章(流体研)、谷内研太郎(素材研)、多田啓也(医学部)、玉井康勝(反応研)、服部栄三(経済学部)、山本敏行(医学部)、山本肇(歯学部)、吉原賢二(理学部)、和田正美(素材研)、渡利千波(教養部)(50音順、敬称略、9月末現在)
 11日 編纂室スタッフ会議。
 18日 評議会議事要録のマイクロ化事業開始。
 25〜29日 編纂室員が国立公文書館・国立教育研究所に出張。文部省関係資料の調査をおこなう。
 9月17日 編纂室スタッフ会議。


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東北大学百年史編纂委員会編集委員会委員名簿

                              (平成9年4月1日現在)

学内委員33名)

今泉隆雄 文学部 教授
玉懸博之 文学部 教授
大藤修 文学部 教授
沼田裕之 教育学部 教授
吉田正志 法学部 教授
  大村泉 経済学部 教授
  三上直彦 理学部 教授
  近藤尚武 医学部 教授
  大家清 歯学部 教授
  坂本尚夫 薬学部 教授
加藤正名 工学部 教授
  山谷知行 農学部 教授
  平田隆一 国際文化研究科 教授
井原聰 国際文化研究科 教授
  伊藤貴康 情報科学研究科 教授
小林典男 金属材料研究所研究所 教授
  八木順一郎 素材工学研究所 教授
  福田寛 加齡医学研究所 教授
  佐藤幸紀 科学計測研究所 教授
  井上督 流体科学研究所 教授
  山之内和彦 電気通信研究所 教授
  清水透 反応科学研究所 教授
  高橋秀幸 遺伝生態研究センター 教授
  国分正一 医学部附属病院 教授
  鹿沼晶夫 歯学部附属病院 教授
  楠田格 言語文化部 教授
  江幡武 大学教育研究センター長
  関内隆 大学教育研究センター 教授
吉田忠 東北アジア研究センター長
入間田宣夫 東北アジア研究センター 教授
平川新 東北アジア研究センター 教授
  菅原政壽 事務局 企画調整官
  辻英雄 附属図書館 事務部長


(学外委員 5名 名誉教授)
渡邉信夫、桜井實、箱守京次郎、渡部治雄、竹内峯
(○印は幹事会メンバー)


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東北大学百年史編さん委員会規程

                  (平成七年十二月十八日 規第七十六号)

(設置)
第一条 東北大学(以下「本学」という。)、東北大学百年史(以下、「百年史」という。)の編さん及び刊行に関し必要な事項を審議し、編さん事業の円滑な推進を図るため、東北大学百年史編さん委員会(以下「編さん委員会」という。)を置く。

(組織)
第二条 編さん委員会は、委員長及び次に掲げる委員をもって組織する。
一 各学部長
二 大学院国際文化研究科長
三 大学院情報科学研究科長
四 各附置研究所長
(遺伝生態研究センター長を含む。)
五 附属図書館長
六 医学部附属病院長
七 歯学部附属病院長
八 言語文化部長
九 大学教育センター長
十 学生部長
十一 事務局長
十二 その他総長が必要と認めた者

(委員長)
第三条 委員長は、総長をもって充てる。
2 委員長は会務を総理する。

(編集委員会)
第四条 編さん委員会に、百年史の編さんに関する専門的事項を調査審議させるため、編集委員会を置く。
2 編集委員会は、次に掲げる編集委員をもって組織する。
一 歴史の諸分野に関し専門的知識を有する者若干人
二 部局史編さん委員会(第七条第一項の規定により置かれたものをいう。)を置く部局から推 薦された者各一人
3 編集委員会に委員長を置き、編集委員の互選によって定める。
4 編集委員会の委員長は、編集委員会の会務を掌理する。

(委嘱)
第五条 第二条第十二号に掲げる委員及び編集委員は、総長が委嘱する。

(編さん室)
第六条 編さん委員会に、百年史の編さん業務を遂行させるため、編さん室を置く。
2 編さん室に、室長、専門員及びその他の職員を置く。
3 室長は編集委員会の委員長をもって充てる。
4 室長は、編さん室の室務を掌理する。
5 専門員は、本学の教官をもって充て、総長が命ずる。
6 専門員及びその他の職員は、編さん室の業務に従事する。
7 編さん室の事務は、別に定める部局において処理する。

(部局史編さん委員会)
第七条 部局に、当該の部局史編さんのため、部局史編さん委員会を置く。
2 部局史編さん委員会は、百年史の共通の編さん方針に基づき、編さん委員会及び編集委員会と密接に連携を図り、かつ、協力し、部局史を編さんするものとする。

(庶務)
第八条 編さん委員会の庶務(編さん室に係る事務を除く。)は、事務局庶務部において処理する。

(雑則)
第九条 この規程に定めるもののほか、編さん委員会の運営に関し必要な事項は、編さん委員会が定める。

附 則
この規程は、平成七年十二月十八日から施行する。


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         東北大学百年史研究会がおこなわれた


 東北大学百年史編纂室は、近年の大学史編纂事業の概要および課題を把握するため、東北大学百年史研究会を行うこととした。第1回研究会は1997年5月16日に、東北大学記念資料室内で『東京大学百年史』編集の実務担当者である東京大学史史料室の中野実氏を招き、「『東京大学百年史』の編纂事業について」と題して行われた。


 東大百年史の編纂事業と百年史編集室
 最初に編纂事業の経緯について、1987年の全10巻刊行まで12年間を費やしたこと。百年史編纂で用いた資料の保存については、散逸を防ぐための恒常的保存機関として東京大学史史料室が設けられたこと。部局史の頁割りについては、創設以来の年次比率で配分したこと。部局掲載順は帝国大学令に定められた序列に則ったこと。経費については1億7千余万円であったこと等について説明があった。
 東京大学百年史編集室設置の業務は、編集および執筆に関することに限定され、資料の収集と整理を行うこであり、各部局との関係は、事務的な連絡通知に限定されるものであった。
 百年史編集室の構成は、室長・専門委員(教授・助教授)、専任室員2名(助手・事務官)、執筆員、非常勤室員からなっていた。非常勤室員には大学院生を充て週3日勤務形態をとり、人数は毎年7〜8名であった。運営は、編集委員会を頂点に、その下に専門委員会が位置し、編集室では業務報告を中心とした月1回の編集室会議を行うという、3つの組織で行っていた。


 資料編と通史編
 資料収集の対象は、機関と個人に分けられる。機関の資料は、学内・学外の公文書であり、学内の公文書は庶務部系統が中心であった。学外の資料は、国立公文書館と国学院大学所蔵のもの(梧陰文庫文書)を対象とし、個人文書は、歴代総長・部局長・事務局長等を対象に系統的に収集した。資料分析は、編集室員個人に依存していたが、共通認識形成のために、編集室全体で行った作業として、評議会議題目録の作成があった。これは各自に評議会記録のコピーを渡し、5年分ごとにカードを取る作業である。資料編は3巻構成であり、学内各機関ごとに法令を中心に収載し、時系列的配列方式を取っていないことが特徴である。各時代の大学の様相を理解しやすくするためには、時系列的配列方式の方がよい。
 通史編は、素案を編集委員会委員長(寺崎昌男氏)が作成し、各執筆者に自己申告(各自の専門分野を基準とする)を原則に割り当て、無署名論文として提出させ校訂を加え、編集委員会の著作とした。学術論文としては優れていても、全体からは「浮く」ことがあるからである。手を加えた後の原稿は返却しなかった。そのかわりに、執筆原稿は、各自の論文として業績とすることを認めた。この原稿の校訂作業に当ったのは、編集委員・ 室員からなる校訂委員(3人)であった。

課題
 東大百年史編集後の残された課題として、以下の3点があげられた。 出版計画については、隔年出版が理想的であり、連年・複数出版は困難である。東大の場合、通史編と資料編刊行が同時並行してしまった。まず基本
資料を確定した上で、通史編を刊行すべきである。制度史的性格が強く、「人物が出ていない」と評価を受ける点。 百年間を全体にわたり完全に書き下ろすことの困難性についての指摘。東大の場合『五十年史』で扱った部分に関しては、『百年史』で事実確定できた。 反面、戦後の記述については、とにかく記録しておくという姿勢で臨んだ点が、課題として残される。 大学史には、「戦争と大学」・「GHQと適格審査」・「大学紛争」等のポイントがあるので、どこかに重点を置き特色を出すべきではないか、と意見を述べられた。
 また大学史編纂の現状について、百年史が完結してから10年経つが、当時との違いは、何より情報機器の発達 点で格段の差がある。 なお、現在、東京大学史史料室では、議題目録をデータベース化している。最後に「自己点検作業としての大学史」という視点について触れ、結びとした。
 この後、刊行計画、資料掲載の注意点、資料編の編成 等、編集の実務的側面や資料の保存等についての質疑応答がなされた。



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東北大学百年史に寄せて−西澤潤一先生講演要旨−


 『東北大学五十年史』は、原田隆吉先生がお書きになったと聞いておりますが、大変名著であると思っております。古本屋に行ったら、数ある大学史のなかで、『東北大学五十年史』の値段が一番高かった、という話があります。

 私がずっと感じておりますのは、東北大学の構成員が東北大学の歴史を殆ど知らない、つまり本学の特徴が掴まれていない、ということを非常に残念に思っております。私は学閥は大嫌いですが、学の伝統は大事にすべき
であると思っております。それは変えてはいけないというのではなく、磨きをかけていくことだと思っております。

 各大学の研究のやり方というものは、みな特徴があって、どれが一番かということは、先になってみないと分からないわけでありますが、それが一本である必要はなく、何種類かの方法があってよろしいかと思います。とにかく、皆が磨きをかけて素晴らしい理想的なものに近づけていこうという学問の展開をしていかなければおかしいわけです。そういうところで見習った学生は、やはりそういうやり方をとるんだろうと思います。

 たしか『科学エリ−ト』という本に、ノ−ベル賞受賞者の系列的分析がありますが、これによりますとノ−ベル賞受賞者は、圧倒的にノ−ベル賞受賞者の研究室から出ている確率が高い。その後に有り難いことが書いてありまして、ノ−ベル賞をもらってからついた弟子からはあまり出ていないが、ノ−ベル賞をもらう前についた弟子からはたくさん出ている。おそらく、先生はノ−ベル賞をもらうと忙しくなり、研究室にいなくなる。研究費もふえて、きわめて甘やかされた研究の仕方になるためではないかと思います。

 本学においても、本多光太郎先生や八木秀次先生の周辺から大変な学者が出ました。素晴らしい先生のそばにいて、先生の背中を見ながら育っていくというのが本当で、その弟子の中に優秀なのがいて、そのまた弟子までが優秀になっていくのであります。

 本学は「実学」とよく言われますが、現実との対応を絶えずとっていくというのが、サイエンスそのものであります。自然をよく見るというのが自然科学ですね。その中から一つの法則性を見つけ出してくる。寺田寅彦先生が鉛の中に鉛を食って生きている虫がいるという話を聞いて、一生懸命調べたという話がありますが、この寺田寅彦先生は、本多先生と同じようにグラスゴ−大学のケルビン卿の流れを汲んだ学者であると私は了解してお
ります。

 学風というのは、ひとりでにつながっていくものですし、ケルビン卿のところでは、現実との対応を絶えずとりながら、自然科学の展開をやられました。これが奇しくも本学に、本多先生を通して流れてきた。本多先生が東大の物理学科から、その学風を一身に背負って本学にお出でになったことで、本学の創立以来の学風がいわゆる実学になった。産学協同だという人がいますが、私はそのようなものではないと思います。つまり学問のないところに入っていって、実際に現物と向き合って新しい学問を展開してきた。要するに中心は現物をよく見てやるというのが東北大学の学風ではないかと思います。本多先生は、東大工学部を創った人達とは明らかに違った
毛並みの先生のようです。いわゆる本当の意味での実学の展開をやってのけたのが本多光太郎先生であります。

 自然科学というものは自然をよく見る、社会科学なら社会をよく見るというところから出発するのでありまして、そのなかにある一つの法則性を見つけ出し、さらに定量化するというのがサイエンスのオ−ソドックスな展開です。だから、何か難しい式を使わないとサイエンスではないという方がいますが、それは大変間違った考え方だと思います。

 文系も、田辺元先生が理科大学の「科学概論」という共通の講義を担当されましたが、その後任の三宅先生も共に京都大学の哲学の教授となられました。極めてユニ−クかつ斬新な学問が本学から生まれたということを我々は考えるべきであります。本学では、山田孝雄先生をお呼びして神道の研究をやっていた。現実にあるものをきちんと研究するという態度から来ているものと思われる。そういう意味で、文系でも大変ユニ−クな展開をした。大変有名な木村亀二先生は、法解釈学ではなく法律をつくる学問をやっていらしたという話がある。

 生物学の方もそうですね。野村先生は浅虫あたりのご出身ですね。その前が、オ−ストリ−から来られたハンス・モ−リッシュ先生でした。大変な学者ですが、第一次大戦後生活が苦しいためいろんな先生が日本にも来られました。加藤陸奥雄先生もそうですが、生態学が多いんですね。生物そのものの生き方を良く見るというところに生物学の原則があるということで、その方面の仕事が非常に多かった。

 八木秀次先生は、東大を四、五番で卒業されました。大体大変な学者というものは、概して成績が悪いということが言われております。本多先生はトップだったそうですが、それでも成績は良くなかったらしいですし、大学院に入るのはやめた方がいいと、父親から思われたくらいです。鯨井先生という講師の方がいらっしゃいましたが、この先生が東大で一人だけで通信の研究を始めておられました。八木先生は、この先生から仙台に行ったらどうだといわれて、来られたようであります。

 八木先生は仙台高等工業学校の先生として、ずっと待命しておられたわけであります。八木先生は雑誌会などを通じて本多先生と接触するうちに、こういう学問が一番いいんだということをお考えになりました。つまり、基礎と応用をぴったりとくっつけたんですね。それで、東北大学に工学部ができた暁には、今の理学部と工学部の間みたいな学問をやるべきではないかとおっしゃっていたんです。

 そんな訳で、本多先生は応用までおやりになったのですから、工学部はいらないだろうという、変なところでとばっちりが出ているんです。結局しばらく遅れて、本当なら工科大学となったわけですが、その時期を失ったために、東北大学工学部は初めから工学部として出発することになったわけです。他の大学に比べると造船もなければ、建築もないという基礎オリエンテッドの展開をやったというのは、八木先生の、基礎科学に基づいた工学をやるということがこの特長の原因なんだろうと思います。

 新制大学になるとき、高専などとの合併のため応用まで含んだ形になったわけですが、今で言うところの基礎工学部が東北大学にあったということなんですね。すぐ外国の後追いしていい気になる方がいますが、東北大学
の学風というのをご覧いただければ、そんな情けない後追いなんかやっていないですね。世界でもトップになるような新しい考え方をどんどん入れて展開してきた大学であることをぜひご記憶いただきたいと思います。

 東北大学をつくるときに、理科大学と農科大学をつくろうとなったわけです。九州は重工業の中心ですから工学部と理学部でもって発足させて、東北大学は理学部と農学部でやろうとしたわけです。北海道に行って北海道
大学は昔は東北大学だったというと、いやな顔をするんですね。仙台よりも早く講義が始まったんだから、3番目にできた大学は北海道大学で、東北大学は5番目だというわけでありますが、これは大変めちゃくちゃな話で
あります。

 八木先生も通信という分野で学生を養成され、研究業績も挙げられたわけであります。電気の先生方は、講義は発電・送電その他の講義をなさるのですが、研究室では通信工学をしておられ、講義と研究の内容はまるっきり違っておりました。当時はほとんど問題にされなかった通信の研究展開を、八木先生が中心となって東北大学の電気でおやりになっていたのです。いずれにしても、非常な先見の明を発揮されたわけです。その後、通信に関しては、どこにいっても東北大学の卒業生がいる状態になったのです。このように、先見の明をもって大学が発展するよう目指すのが、大学の本当の姿だろうと思っています。

学問は、体系化すると進むものでしょうか。私はむしろ体系化されないうちの方が進むんじゃないかと思います。形が整ってしまうと進まなくなってしまう。東北帝国大学が創られたときには、もともと第二番目が京都帝国大学でございます。京都は、哲学的な学問で大きな成果を収めている訳です。創立からそういう学風で出来ているんですね。

 日清戦争のときには大きな賠償金が入ったので、これをかなりふんだんに使って京都大学を創りましたから、今でもかなり残っていますが非常に素晴らしい校舎なんですね。次に三番目と四番目の大学を創ろうというのは日露戦争の後なもんですから、このときは賠償金は一銭もありませんので、内務大臣だった原敬さんが古川家から無理やり寄付を出してもらい、できたのが九州と東北の両帝国大学であります。

 開講は九州大学が早いので、あらかた半分以上のお金をつぎ込んでしまいました。その後、札幌農学校を本学の農科大学にするときに、またその半分以上お金を注ぎ込んでしまいました。仙台に来たとき残っていたのは二十万円という金額でした。全部レンガ建てにしようと思ったらお金が足りなくて、木造にしてペンキでレンガの絵を描いたという話がありますが、大体昔から貧乏大学ですね。それもあって、産学協同の知恵がついたのかも
知れません。必ずしも恵まれたところがいいということではなく、恵まれないところで仕事をするというのが大事だと思います。

 昔は講座研究費があったんですね。それを巧みに使って仕事をするというのが、この大学の特長かと思います。私の親父は、九州から原龍三郎先生と一緒に東北大学工学部の、応用化学を強化するときに第二陣として赴
任してきたわけですが、 仙台に来て一番嬉しかったの は、夕方校舎から追い出されない、夜でも電灯がつけられたことだったそうです。

 東北大学の一番の特長は、安い研究費で対抗しようと思ったら、学生を相手に測定器械を造りながら新しいことを実験する。これが東北大学の学風であります。そういう意味で、初めからグラスゴ−流の他に見られない非常にユニ−クな成果を挙げた大学である、ということをこれからの若い人たちも誇りに思っていただきたい。

 私は卒業研究の指導を、どの先生に受けるかを全然考えていなかったんですが、抜山平一先生がわたしの親父に、「お前の息子はどの先生につくつもりだ」ときかれ「まだ、何も考えていない」といったら、「ちょっとうちへよこしてみなさい」といわれ、伺ったのですが、翌朝抜山先生が私の親父に向かって、「渡辺(寧)さんのところへどうだ」といわれたんですね。そしたら何と先生同志が犬猿の仲なんですね。なぜ仲の悪い渡辺先生のところへやったんだろうと不思議に思っていたら、ある人が、「こんな奴が俺の研究室に来たら、大変だと思ったから、 渡辺先生のところへ入れたんだ 」という話です。その時渡辺研の志望者が二十七人いたんですが、全部入ったんです。 電気と通信を合わせて百人の学生で す。そのうち二十七人がひとつの研究室に集まったんですが、抜山先生のところには一人も行かないのは失礼だというので、 自ら人身御供になった学生がいるんですね。自民党副総裁の西村さん、松前重義先生、電波管理局長をやった藤木さんとか毎年素晴らしい人材が抜山研を卒業生しているんですね。

 これは学生が大人だったこと、先生方が俺のところに何人来たなどというケチな考えをお持ちにならなかったことなどが大きな意味があるんじゃないかと思います。東北大学に入って、誰先生につきたいといった希望を叶えてやることをしないと、本当にその先生につきたい学生は、仙台に来なくなると思います。憧れて大学に来るという風習を、私たちの時代に壊しちゃったのかと非常に残念に思っております。やはり、学生が先生を選ぶというようなことを残しておく方が教育効果が挙がるのではないかと思われます。

 昔からそうですね。東北大学に入って本多先生につきたいと思い金属工学科入ったら、 本多先生がおられなかった。先生は物理の先生だから、物理学科に入らないと先生の指導は受けられなかった。間違えて金属工学科に入ったもんだから、退学して受験し直した者もいたんですが、そのまま金属工学科に残った学生もいて、お陰で金属にいい学生がそろったという話もあります。このような風習が、新制になってからなくなって来たという
ことは残念であります。

 私は「東北大学百年史外伝」を作ろうと思っております。本編に載らないような面白い話を載せるということで、先生方の原稿を募集いたします。東北大学出版会が出来たんだから、最初の本はお前が出せと言うんです。ただし、原稿料は出せないという、ずいぶんひどい話ですが、「百年史外伝」の方は先生方のご好意に甘えたいと思っております。そのうち、後援会便りなどに私が整理して配布いたしますので、ぜひ面白い、価値のあるお話を出していただきたいと考えておる次第です。以上で終わらせていただきます。(拍手)

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